次の段階へ
勉強の過程として先日、ルチアの狂乱の場と、ブリュンヒルデの自己犠牲を同時に歌う機会があったのですが、「次の段階に進みましょうか」と、楽器と演奏者双方のコンセンサスをようやく得られたような感覚に至りました。
3月の末にはこのように考えていました。このように、舵をとろうという気持ちを手放して、楽器の進みたい方向に任せていたら、ある程度楽器も満足したようです。
恥ずかしながら、自分の声をもしも楽器に例えるとしたらどの音色の楽器だろう、というのが長年ずっと掴めずにいたのですが、ルチアとブリュンヒルデの両方を合わせてみたことで、「ああ、自分はきっとチェロのような楽器なんだ」と、ようやく気付くことが出来ました。金管楽器のような響きに憧れますが、自分は音色的にも性格的にもそうではありませんでした。では、木管楽器?と探ってみましたが、どうもなんだかしっくりこない。でも、ヴァイオリンやヴィオラではない。では、いったい何だろう……と探索を続けてきましたが、ようやくしっくりきました。これも、楽器との対話を深めた先でようやく見つけられた答えです。自分は、チェロのような楽器でした。やっと、楽器が正体を明かしてくれました。
自分の楽器との対話を続ける過程で、「『レッスンを受ける』という行為は、自分の中に蓄積された情報の回路をアップデートすることだ」という考えにも至りました。確かに、レッスンを受けることは、先生からの新たな指摘を受けることで、自分の中に蓄積された情報を書き換えて、新たなアウトプットの回路を作ることに他ならないのだ、とも気が付きました。ということは逆に考えてみると、情報回路のアップデートがかなったということは、自分で自分にレッスンをしていたということなのかもしれない……とも思い至りました。
楽器との時間をとことん持てたことで、自分の考えも大きく変わりました。以前は、ソプラノ・ドラマティコ・ダジリタだ!ということに、非常に価値を置いていたように思いますが、それは「楽器」と「技巧」を一緒に考えていただけにすぎない、とも理解しました。技巧は、どんな人でも共通のものです。そして、技巧を磨いていくことは、常なるつとめです。楽器を育てていくことも、常なるつとめです。単に、日々の常なるつとめを重ねていった先の、ひとつの通過点にしか過ぎません。
考えてみたら、ここまで自分の楽器と向き合ったことは生まれて初めてかもしれません。また、楽器との対話を深めることで、演奏者としての自分を理解することにも繋がりました。演奏者の自分というのは、とどの詰まり「書く自分」なのです。書く自分が、言葉に向き合う時の感受性を持って、楽譜に向き合っているのです。楽器との対話を深めることで、私はようやく「演奏者の自分=書く自分」だと理解がかないました。
ひと月弱ほどのバッファの時間を設けたことで、ようやく今の自分の着地点が見つかりました。今年のはじめの目標に帰っていこうと思います。ワーグナーをはじめ、ドイツ・オペラの要員として求められた時に、いつでも対応がかなうように勉強を続けていこうと思います。
ベルカントは、楽器の調整のために続けていきます。夜の女王も。けれど、レパートリーとしては、自分にとってのbull's eyeではありません。実践を通じて、改めて理解が深まりました。これからも変化を続けていくことで、自分の新しい在り方を保っていこうと思います。
今日はいいお天気! とても気持ちがいいですね。どうぞお健やかにお過ごしください。
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