上野の辯天堂で
先日、ひさしぶりに上野の辯天堂にお伺いする機会があった。
大学受験の頃から、芸事上達を祈願して、お参りを続けている辯天さん。一時期は、先が見えない真っ暗闇の中、どうか光が見つかりますように…と、すがるようにお参りを続けた。どうにもならなくて、なにもかもが中途半端で、つらくて、でも誰と分かち合えない孤独感に苛まれながら、巡礼のように辯天堂に通い続けた日々。
昔からの変わらないスタンスとして、無宗教だけど、すべての神様を尊重していきたいという自分だったが、いつしか「辯天さん」という芸事の女神が、特別な存在になっていた。救いをもたらす女神のように思っていた。ずっと心の中で頼り、問い掛け、すがり、心の旅を続けていった。
おそらくはあのころ、なにか確かな答えがほしかったのだろう。白か黒か、青か赤か、はっきり示してくれるような、絶対的な存在を求めていたのだろう。すべてにおいて依存的だった私は、確かな揺るぎない存在に憧れながらも、どちらの方向に足を進めてよいかも決められず、ずっと同じ場所で足踏みを繰り返していた。
久しぶりに訪れた辯天堂は、小春日和の陽射しの中、穏やかだった。お賽銭を入れ、手を合わせる。心の中は不思議なほどに穏やかだった。気づけば、昔のように辯天さんに答えを問いかけることは、していなかった。そのかわり、報告をしていた。これからこうこう、こうしていきますので、どうぞお見守りいただければ幸いです。よろしくお願いします。そんな感じで、穏やかに辯天さんに語りかけていた。
どうして、こんなに心の中の景色が変わったのかはわからない。大きな、劇的な変化ではなく、地道な変化の積み重ねがあって、いまに至っていることはよくわかる。家人の存在も大きいのだと気づく。いまの私の音楽や言葉は、すべて家人との生活から生み出されているものだ。なにげない暮らしの積み重ね、いっしょにいる時間の積み重ねが、すべて私の音楽や言葉になっている。彼には感謝しかない。
振り返って写真を撮ろうとしたら、お年を重ねたご夫婦が寄り添って立ってらした。私も家人とこうやって年を重ねていきたいな、と願った。写真を撮ってから思わず、頭を下げた。素敵なひと時のおすそ分けを、ありがとうございます。
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