音楽は、台所と共に
私が自分の楽器と深く繋がれていると感じるのは、台所に立っているとき。野菜を洗って、皮をむいて、とんとんとんと切って……というルーティンの中に身を置くと、野菜と対話しているような気持ちになる。今日もどうぞよろしくお願いしますね、と野菜に挨拶するように、皮をむく。それは、楽譜を読みながらアナリーゼしている感覚と、よく似ている。
台所仕事をしている時には、気がつくとブレストレーニングを繰り返している。1・2・3・4・5・6で息を吐いて、1・2で止めて、1・2で息を吸う。その繰り返し。野菜を切る時も、米を研ぐ時も、ずっとその呼吸を繰り返している。頭の中で音楽を流しながら、息を流すことも多い。
そういえば先日、先輩歌手の方にインタビューをさせていただいた時には、「暮らしのすべては、音楽や芸術と繋がっている」という話で盛り上がった。台所での仕事も、部屋を整えることも、すべて音楽と繋がっている。そんな感覚を共有できて、とても嬉しかったのをいまも鮮やかに覚えている。
留学経験のない私は、ずっと海外居住経験がないことを引け目に感じていた。実際の土地に身を置いていない自分は、劣った存在なのではないか……という思いが、ずっと燻り続けていた。それなら行けばよかったじゃない、と言われるかもしれないが、様々なしがらみを振り切って飛んでいく勇気は、私にはなかった。
でも、いつからか吹っ切れた。自分の精神と心と体、自分自身の楽器に以前よりも真剣に向き合うようになって、自分の厄介な特性に合った調整方法がようやく分かってきた。音楽だけでなく、言葉を紡いでいくことで自分を調律していく方法が、ようやく分かってきた。呼吸と脱力を、より主体的に繋げて、自分を調律していく方法が、ようやく分かってきた。純国産だからこそ、様々な国の音楽と等しい距離を保ってお付き合いしていけるという特徴も、理解できるようになってきた。「どこに留学していたんですか?」と尋ねられることが多いのも、自分のアプローチに自信を持つ、ひとつのきっかけとなった。
そんな私が、自分の音楽を育んできたのは台所だった。実家にいたときには、料理しながら歌ったりもしていた。ピアノの部屋があるにも関わらず、台所で練習するのが常だった。テレビがまだブラウン管だったときには、テレビの画面がどの母音で波立つか、実験を重ねていた。どれだけ画面を波立たせられるかを、響きの当たり具合の指標としていた。
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3年前、ご縁をいただいてワーグナーの《ニーベルングの指環》を聴きに行った時には、2週間近くバイロイトにひとりで滞在した。それが、私の一番長い海外経験だ。その間、バイロイト市内のユーロショップ(日本でいう100円ショップ)で食器を買って、ホテルの向かいのスーパーで食材を買って、慎ましく暮らしていた。たまに市内でカリーヴルストを食べたり、ビールとシュニッツェルをいただいたりするくらいの、ほんのささやかな贅沢をしながら、バスに乗って祝祭劇場に通った。
バイロイト祝祭劇場での体験は、私の楽器をすっかり変えるものだった。足元から突き上がるように伝わる響き。そして、圧倒的な声とオーケストラの響きに全身を包まれる経験。そんな経験を夜ごと繰り返し、昼は妻・コジマと共にワーグナーが眠るヴァーンフリートに通い、緑の小径の中で当時勉強していた《ワルキューレ》の楽譜を読む、という生活を続けた。
そんな日々を送る中、ホテルで食事の支度をする時間が、自分にとっては憩いの時間だった。ソーセージを切って、パンを切って、野菜とチーズを切って、ささやかな食卓を準備する時間。炭酸水をユーロショップで買ったマグカップに注いで、市内の花屋で買って部屋に活けた薔薇と乾杯して、ゆっくり食べ始める時間。憧れの地であったバイロイトにも、私のいつもの暮らしは繋がっているんだ、という当たり前のことが、心に沁みた。
食事を終え、ポットのお湯でお茶を淹れるときも、ただただワーグナーの音楽と言葉を考え続けていた。そういえば、ホテルの部屋に置いてあったティーカップは「ワルキューレ」というメーカーのものだった。自分が勉強していた演目との不思議な偶然の一致を感じたのを、思い出した。
ちなみに、部屋に活けていた薔薇は2週間近く、よく保った。最後の日には、ヴァーンフリートのワーグナーとコジマの墓に、その薔薇を手向けた。今でもその薔薇の写真を、gmailのアカウントの写真にしている。
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バイロイトでの日々を終えて、フランクフルト経由で日本に帰ってから、自分の楽器の感覚が大きく変化していることに気がついた。これまでと音色も、響きの位置も変わっている。楽器を扱う上での内的感覚の大きな変化に驚き、戸惑った。でも、時間をかけて育てていくことが必要だ、とも感じた。
3年かけて、楽器の状態はようやく安定してきた。低い音域も、オクターブ下のドまで出せるようになった。脚の筋肉の使い方も、腰回りの筋肉の使い方も、安定してきた。おそらく、これから6〜10年の期間が、歌い手としての自分の〈旬〉なのだろうと感じる。楽器としての精神と心と体を、安定して扱うことが出来るようになったからこそ、自分の楽器と音楽を大事に扱っていくことが重要だとも感じる。
だからこそ、今日も台所に立つ。台所に立つことで、自分の楽器の状態を確認し、調律していく。日々変わらないルーティンを繰り返すことで、自分自身との対話を深める。台所は、私にとって「精神と時の部屋」だ。
昨日のお夕飯は、土鍋ごはんと、厚切りベーコン・せり・じゃがいもの洋風鍋。トリュフ塩をぱらりと振りながら食べるのが、美味しかった。今日のお夕飯は何を食べよう。こんなことを楽しく考えていくのも、楽器をきっといい状態に保つことに繋がるのだろう。そう、私の音楽は、常に台所と共にある。これまでも、これからも、ずっと。
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