トゥーランドットを終えて
先日、《トゥーランドット》ハイライトが終了した。長い間、自分にとって特別な作品であった《トゥーランドット》を実際に演じるのは初めての経験だった。これまで音楽は体に入れてきたものの、そのアウトプットは初めてだったので、前日までは落ち着かない時間を過ごしていた。あまりに落ち着かなさすぎて、夕食にはひとりあたり2人前はあろうかという豚肉のポン酢焼きを作ってしまった。家人とふたり、試合のように豚肉に向かい合い、食後はしばらく動けないままに、「よくやった」「よく戦った」と互いの健闘を称え合った。普通の日常の中に、急にフードファイトを紛れ込ませる妻でごめん。
以前にも、この役を演じようという機会はあった。それらは、ことごとく流れていってしまった。また、その過程において、思いもかけないことが起こり、私自身が心身のバランスを取り戻すまでに時間がかかったこともあった。それらは全て過去のことだ。そして、それらの事実はすべて、トゥーランドットを私が歌うには時期尚早だったという、ただそれだけのことなのだろう。
今回、素晴らしい皆様とご一緒にトゥーランドットを演じられて、過去のそうした全てが浄化されていくような気がした。ようやく、ひとつの時代の終わりを、私自身が受け入れられた気がする。
今回のトゥーランドットを演じるにあたっては、九月初頭までカヴァーキャストとして参加していた、東京二期会《フィデリオ》の経験も、深い部分で影響を与えたと感じている。「自由」が大きなテーマとして掲げられた深作健太氏の演出は、自分自身の中で温めてきたワーグナーのヒロイン像にも大きな影響を及ぼした。そして、トゥーランドットもまた、過去の囚われ人であり、奥底の彼女はずっと「自由」を求めてきたのだという、新たな気付きを得られた。カラフからの口づけを受けて、彼女の心を覆っていた壁は崩れ、がれきや欠片が排出されていく。その、過去の壁のがれきが排出されていく過程が、カラフとの愛の二重唱なのだと、自然に腑におちていった。個人としてのトゥーランドットの物語は、幕を降ろしたところから始まるのだろう。
今回の公演は、同時配信された。こうして、記録が残ることはとても嬉しい。よろしければ、お手すきの時にご覧いただければ幸いです。
アドレスはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=PpXs_wGcHGQ&t=2028s
さて、トゥーランドットを終えた今、思うことは「もっと内面的な作品を歌いたい」ということ。心のひだを丹念に追っていくような、そしてその中にある澱を丹念に溶かして、浮かび上がらせていくような、内面的な作品を丁寧に歌っていきたいという思いが、自分の中に湧き上がっているのを感じる。
それはおそらく、自身の内にある文学的な欲求と無縁ではないのだろう。自分はもともと、文学を体で表現したくて、音楽の道に進んだようなところがあるから、それは自分にとってごく自然の欲求なのだろう。
いま勉強を始めた役は、そんな自分の内面の深い欲求と呼応しているような気がしている。ご縁が結ばれることを願いながら、勉強を深めている。とても、とても楽しい。ワーグナーを学び続け、《フィデリオ》と《トゥーランドット》を経験した今の自分だからこそ、等身大の自分で向き合い、寄り添えるような気がしている。
道は続く。ゆっくりと、地道に、歩き続けていこう。
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