夜の女王とカルメンは、違う人が歌うものです。 ──(1)夜の女王


 自分がオペラを歌っているものだから、「オペラ」って聞くと、一般的に何が浮かぶんだろう……ということがわからなくなってきています。それでも、「夜の女王」「カルメン」「蝶々夫人」あたりは、名前だけは聞いたことある人が多いんじゃないかと思います。


 たまに、「夜の女王、歌ってもらえませんか?」とか、「カルメンは、歌わないんですか?」と訊かれることがあります。そういう時には、「それは、私の声とは違うジャンルの方が歌うんですよ」と答えています。聞いてみると、私の周りの歌い手さんの多くが、同じ質問を受けているようです。


 「歌えないんですか?」と、食い下がられることもあります。「いや、『歌えない』というよりも、『歌わない』が正しいです」と説明しますが、お相手の方は釈然としません。プロと名乗るからには、古今東西のオペラの名アリアは全部歌えるはずだ、と思ってらっしゃるのかもしれません。


 違います。プロだから、歌わないのです。自分の専門領域を大事に育てて、他の方の専門領域も大事に尊重して、それぞれの専門領域で培った音楽性と技術を持ち寄って、ひとつの舞台を作っていくのが、オペラ歌手の仕事です。


 そう、それぞれの役には、それぞれのプロフェッショナルがいるのです。そして、夜の女王とカルメンでは、もともとの声の質や、求められる技術がまったく違うものなのです。


 そんなオペラ歌手事情を、少しでも分かってもらいたい。そう願いながら、自分自身の実体験に基づいた連載コラム「夜の女王とカルメンは、違う人が歌うものです。」を始めていきます。ほんとそれぞれ、混ぜるな危険!です。



「夜の女王」との出会い──それは『美味しんぼ』


 ちなみに私が最初に「夜の女王」の存在を知ったのは、小学生の頃に読んだ『美味しんぼ』の最初の方の巻(たぶん、1巻?)がきっかけでした。ギリシャから来日したオペラ歌手が、舞台の上で「夜の女王」のアリアを歌っていたのですが、「聞け!」という場面で声が出なくなってしまうのです。


 喉を抑えた彼女は、しばらく呆然とした後に、舞台から走り去ってしまいます。指揮者はカンカンカンと指揮棒を叩くし、客席も騒然となる──という、今で考えるととってもびっくりな場面が、記憶に鮮やかに残っています。走って逃げちゃ、だめ。


 結果として彼女は、ホームシックで体調を崩していたのですが、山岡さんが濃いオリーブオイルをかけた焼き魚をふるまったところ元気になって、次の公演では笑顔で歌い上げました。「オリーブオイル、すごいな!!」というのと、「夜の女王って、大変なんだな!!」というのが、子供心に刻まれました。



「夜の女王」に挑んだ、中学生の日々。


 そんな漠然とした『美味しんぼ』の知識をもって、歳を重ねて、オペラのことを勉強し始めて。中学生の頃に初めて買ってもらったオペラアリア集の中に「夜の女王のアリア」があるのを見た時には、興奮しました。あの、『美味しんぼ』のオペラ歌手が歌ってたのは、これなのか!と、どきどきしながらページをめくりました。


 ひと目見た瞬間、「なんだこれは」となりました。五線を遥かに超えたところで連続して求められる高音。しかも、ものすごく、高いところで歌わなければならない。そっと閉じました。こりゃ、たいへんだ。そりゃあ、あの『美味しんぼ』のオペラ歌手も、オリーブオイルたっぷりの焼き魚食べたくなるよ。そう思いました。


 でも、幼いって、おそろしいものですね。何を考えたのか、しばらく経ってから「夜の女王チャレンジ」を始めました。無理です。14〜5歳の、訓練もろくに受けていない少女が手出し出来るものではありません。今なら、冷静にそう思います。しかも当時は、メゾソプラノだと言われていました。コーラス部でも、いつも低音ばかり担当していました。

 「それでも、限界のその先に挑戦するんだ!!」と、少年ジャンプの主人公みたいな気持ちになって、楽譜に挑み続けた日々。「壁は、高ければ高いほど、燃えるゥ!!!」と、わけのわからない情熱に駆られ続けた日々。


 でも、ある日、「あ、こんなことしてちゃ、いけない。」と、我に帰りました。不思議ですが、熱がすうっと引いていきました。壁に挑み続けたことで、壁の偉大さと、自分の幼さと小ささがわかったのかもしれません。それからは、夜の女王のアリアのページを開くことはなくなりました。



夜の女王のアリア──「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」


 ちなみに、その時に私が挑み続けていた夜の女王のアリアは、こんな音楽です。ほんとにすごいので、ぜひ聞いてみてください。


 歌っているのは、ディアナ・ダムラウというドイツ出身のオペラ歌手です。聞いていただけるとわかると思いますが、ピンと張った声を保ちながら、超高音での回転を難なくこなしています。本当に素晴らしい。


 で、なんでこんな険しい顔をしているかというと、夜の女王が怒りに満ちている場面だからなんです。


 夜の女王が出てくるのは、モーツァルト作曲の『魔笛』というオペラ。このオペラは、非常に抽象的な要素が強いのが特徴のひとつ。ものすごくざっくり言うと、


①まず、夜と昼が対立しています。夜の女王は、夜をおさめています。昼をおさめているのは、ザラストロという賢者です。


②夜の女王には、パミーナという娘がいます。パミーナは、ザラストロのもとにさらわれ、教育を受けています。


③夜の女王は、パミーナを取り戻そうと、タミーノという王子をかどわかし、ザラストロのもとへ遣わします。


④しかし、タミーノとパミーナはひと目で恋におちます。タミーノは、ザラストロの叡智に感銘を受け、パミーナと結ばれるために、ザラストロの課す試練に挑みます。


⑤それを知って、怒り心頭の夜の女王。ついには、自分自身がパミーナのもとに姿を現します。


⑥怒りに満ちた夜の女王は、パミーナに短剣を渡します。そして、「この短剣で、ザラストロを殺せ。さもなくば、お前は私の娘ではない。永遠に!」と、このアリアを歌い、去ります。


 ……というのが、この「復讐の心は地獄のように我が心に燃え」を、夜の女王が歌う背景です。それにしても、改めて日本語で見てみると、すごい題名ですね。デスメタルみたいだ。


 最終的には、夜の女王は破れ、タミーノとパミーナは結ばれ、ハッピーエンドで幕をおろします。ちなみにもう一組のカップルも試練の末に結ばれるのですが、それはまた次の機会に。



「夜の女王」を歌う声とは。


 お聞きいただいておわかりいただけたと思いますが、本当に大変なんです。夜の女王。中学生の私は、何を考えていたのでしょう。こわいこわい。


 で、この夜の女王を歌うのは「コロラトゥーラ(レッジェーロ)・ソプラノ」と呼ばれるタイプのソプラノです。


 女性の声は、高い方から、


①ソプラノ

②メゾソプラノ

③アルト

④コントラルト


……となっています。ソプラノは、高い方の声種です。



 で、ソプラノもいろんな種類に分かれています。声質の軽い→重いの順で、


①レッジェーロ(コロラトゥーラ)

②リリコ・レッジェーロ

③リリコ

④リリコ・スピント

⑤ドラマティコ


 ざっくり分けてみると、こんな感じです。ものすごくざっくりです。ちなみに私は、ドラマティコです。重たい方です。



 さて、夜の女王にまず求められるのは、


◎安定した高音〜超高音の技術

◎音の連なりを滑らかに歌う技術


 ものすごくざっくりまとめてしまうと、この2つの技術は、絶対に欠かすことができません。逆に言うと、どれかひとつでも満足ではない場合は、準備が達していないということです。他にも、言葉のこと(この場合はドイツ語です)、身体表現のこと、アンサンブル能力のことなどなど、様々な細かい要素が絡まってきます。


 厳しいと思われるでしょうか? でも、これは当たり前のことです。私自身も、自分の専門領域の役柄に関しては、必要最低限の準備はいつでも重ねています。私に限ったことでなく、オペラ歌手の方々はみんな、同じです。こんなこと改めて言葉にしちゃうと、なに寝ぼけたこと言ってんだよ、って感じだと思います。テヘヘ。


 そんな感じで、それぞれの役には、それぞれ求められる専門的な技術があるわけです。そして、夜の女王とカルメンに求められる専門的な技術は、全く違うのです。



では、カルメンってどんな役なの?


 って、気になりますよね。ですよね。


 これは、また次回お伝えしていきたいと思います。ちなみに、カルメンはメゾソプラノです。


 夜の女王とカルメンでは、求められる技術は違うのよーー!!って叫んで、今回のコラムはここまでにします。違うんです!




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